キャバ嬢を愛して3
2018/10/05
俺が心を決めてしまえば、離婚にはほとんど障害がありませんでした。
唯一、離婚後に生まれてくる子が戸籍上「俺の子」となるという点だけが面倒でしたが、
現行の法律ではどうしようもないことなので、気にしないことにしました。「Eちゃん、『エンジェル』行くよ。今日は付き合えよなぁ?」2月に入ってすぐ、ようやく仕事のペースが落ち着いてきた頃、
上司の「たーちゃん」こと田上さんに『春菜』の店に誘われました。
わざとらしい笑顔が「今日は逃がさないからな」と、言外に語っています。仕事と離婚問題で忙しいという理由で、
しばらく田上さんの誘いを断り続けていましたが、それ以外に『春菜』のところに通うのに抵抗があったのも事実です。
千佳は本当に『春菜』の客でない俺と、付き合いを続けてくれるのか。
この時点ではまだ確信が持てませんでした。
彼女が俺の気持ちがどれぐらい本当なのか知りたがったように、俺も彼女の気持ちを計りたかったんです。
だから、『斉藤千佳』と知り合って以来、『春菜』には逢っていませんでした。千佳とは週に1〜2度のペースで逢い、酒を呑んでいました。
でも、毎回、別れ際にキスする程度で、いまだに抱くことはおろか、
あれ以来一緒に寝ることもありません。
千佳も俺も仕事が忙しく、逢うのが夜9時過ぎ、バーに行って酒を飲み、終電で帰る、というのがいつものパターンになっていました。もしかすると、「抱きたい」という気持ちを伝えれば、彼女はOKしたのかもしれません。
しかし前回、10歳も年下の彼女に思いっきり甘えてしまったことで、どうにも誘いにくいな、
という気持ちが自分のなかにあったんです。
それに、ただ一緒に呑んでいるだけで十分に楽しかったので、あまり焦りもありませんでした。久々に行った『エンジェル』はかなり混んでいました。
『春菜』は他の指名客に付いていたため、最初、俺の隣にはヘルプの女の子が座りました。
これまで何度もあった、ごくごく当然のシチュエーションですが、やっぱり今日は妙に胸がざわざわします。
田上さんご指名の京香さんも忙しいらしく、もうひとり別の女の子が付きました。指名客が重なった場合、店はできるだけ客同士の席がブラインドになるような配置にします。
京香さんぐらいの売れっ子になると、あちこちに席を持つことになるので、完全ブラインドは不可能ですが、
そこまで指名が重なることのない『春菜』の場合、接客中の姿を垣間見ることは稀です。『春菜』はどんなやつに指名されて、どんな話をしているのだろう……。
これまで、そんなこと気にしたこともなかったのに、今日はやたらと落ち着きません。
好きになった女はキャバ嬢なんだなと、嫌でも再認識させられました。「たーちゃん、Eさん、おひさしぶり〜!」ようやく黄色いドレス姿の『春菜』が席にやってきました。「春菜ちゃん、ご無沙汰! あいかわらず綺麗だねえ〜」ヘルプの女の子がイマイチだったこともあってか、
田上さんがはしゃいで『春菜』を迎えます。
俺は、どうも、と軽く頭を下げる程度のご挨拶。不思議なくらい緊張しています。「あら、Eさんは元気ないのね。お疲れ?」「ちょっとね……」「久々に逢うんだから、もっと嬉しそうにしてよね〜」と『春菜』。
白々しい、昨日一緒に呑んだばっかりじゃん、と思いつつも、ここは『春菜』に合わせます。
その後も、平静を装いながらも、なんとなくギクシャクした会話が続きます。
俺と千佳、ではない、俺という「客」と『春菜』の会話です。田上さんの席にやっと京香さんが付き、ほっと一息。
「たーちゃん」が京香さんとの会話に没頭している隙に、『春菜』はちょこっとだけ千佳に戻りました。「お店、来なくていいのに」「いや、田上さんのお付き合いだし。あんまり断ってばっかりいられないよ」「そっかー。お仕事だもんね。でも、本当はあんまり来て欲しくないんだよね……」「ん? そんなもんなの?」「そりゃそうよ。『春菜』は客なら誰にでもいい顔するから……見られたくないし」「ん。……俺もあんまり見たくない」『春菜』と千佳は同じようでまったく違う存在。
彼女はきっちりと使い分けているようです。
よくそんなことができるなあ、と、ちょっと不信感も芽生えてきます。
俺はどこまでが俺で、どこからが「客の俺」なのか、
まったくわからなくなり始めているというのに。1回延長し、11時過ぎに『エンジェル』を出ました。
帰り道、上機嫌のたーさんと立ち食いそばを悔いつつ、
馬鹿話に花を咲かせていると、『春菜』からのメールが着信しました。「はるなでーす。今日はありがとう。今日、店終わったあとちょこっと呑める?」
まだ営業中ですから、千佳もまだ『春菜』状態のようです。
店が終わるのは午前2時。まだ2時間以上もありますが、OKのメールを送り、
ふた駅ほど離れたところにあるファミレスで待ち合わせすることにしました。「ごめんね、遅くなっちゃった〜」
2時50分、7杯目のコーヒーを飲み干す前に、千佳がやってきました。
「終礼が長引いちゃってさ。あーお腹へったあ」
パスタとアイスティを注文し、ようやくひとごこち、といった風に、椅子に深く座り直しました。「今日はありがとね」「ん。久しぶりに逢ったよね、『春菜』さん。やっぱり千佳とはちょっと違うんだね」「そうねー。基本は同じなんだけど……やっぱり同じじゃないよね」「ちょっと、とまどっちゃったよ。完璧に演じ分けてるから」「そう? ……嫌だった?」「嫌っていうか……すごいなあ、って……」千佳は困ったような顔になりました。「……言いたいことはわかるよ。でも、仕事だから。Eさんだって仕事場では今とおんなじじゃないでしょ? 取引先の人の前では素で対応しないでしょ?」「そりゃまあそうだな」「わかって欲しいのはそれだけ。
Eさんは今日、私の職場に来たの。
そこがキャバクラっていう場だからいろいろ考えると思うけど…
…仕事なのよね、どこまでいっても」「なるほどねえ……」彼女の言葉には一理ありました。納得できるかどうかともかく。「キャバだとさ、源氏名があるから、パーソナルを完全に分断しやすいのよね。
そこが普通の仕事と大きく違うところかなあ。
今は『春菜』だから、今は千佳だから、って、そう思うことでより割り切ることができる。
というか、割り切れないと続けてられないかもなあ」ストローでカラカラと氷をもてあそびながら、千佳は吐き出すようにいいいました。「夜の仕事、もうちょっとやめられないんだ」「そう……」「ごめんね。嫌かもしれないけど」「うん……」「それでもよかったら……」その続きを待ちましたが、千佳は黙ったままでした。その時は詳しく理由を聞く気にはなれませんでしたが、千佳が『春菜』でいるのには、大きな理由がありました。
それを知ったのはもっと後のことです。正直なところ、千佳ではなく『春菜』だったとしても、
店で別の男相手に愉しそうに呑むのは嫌でたまりませんでした。
でも、ありのままの彼女を受け入れようと、俺は決めました。「わかった。それでいいから、俺と正式に付き合ってくれ」「……うん。こちらこそよろしくお願いします」千佳はそういって恥ずかしそうに笑いました。
いつも明るく笑う千佳が見せた珍しい笑顔です。「それでね……Eさん、お願いがあるの」「ん? なに?」「あのね……」「なになに? 抱いてほしいんならそういいなよ」俺は場の雰囲気を変えようと、軽口を叩いたつもりでした。
しかし、意に反して千佳は俯いてしまいました。そして、小さな声で「だいてほしいです」と言いました。見慣れたキッチン。
いつもの大きなダイニングテーブル。
なのにいつもとまったく異なる雰囲気。ついこないだまで、妻と俺だけの空間だった「そこ」に、千佳がいます。「ほれ、コーヒー」
濃いめのインスタントコーヒーをサーブすると「コーヒー苦手」と、千佳が肩をすくめました。「……あとは牛乳しかないぞ」「ん。それでいい」仕方なく冷蔵庫を開け、牛乳のパックを取り出しました。「私ね、子どもの頃から背が低くてさ。
胸も……。だから、すごくいっぱい牛乳飲んだんだ。効果なかったけどね」「みたいだな」千佳は身長155センチぐらい。
普段は10センチのヒールを履いているので、あまり気にしたことはありませんでしたが、裸足なるとにたしかに小さく感じます。
必要以上に背中を丸め、小さくなって牛乳を飲む姿は、幼い子どものようです。
普段、姉御肌で明るく余裕たっぷりな雰囲気を纏っている千佳はどこへやら。
キョロキョロと、せわしなく俺の部屋を眺めています。「奥さん、出ていったんだね」「5日前にね」「そっか。本当にバツイチになったんだね」「嘘付いてどうする?」「……」どうにも会話が弾みません。
お互い緊張しすぎなのが手に取るようにわかります。「あの……シャワー借りていい?」「ああ。そこ。タオルとかは用意しとくから浴びてこいよ」「うん……」そそくさ、という表現がぴったりの挙動で、
千佳はバスルームへと消えていきました。
俺はため息をひとつ付いてから、バスタオルとパジャマ、ヘアドライヤーを用意して、脱衣所兼洗面所の方へ向かいまし
た。勝手知ったる我が家のバスルームから響くシャワーの水音。
それを使っているのは妻ではない女。
そんなシチュエーションに、俺は情けないぐらい興奮していました。「ここにタオルとパジャマ置いとくからな〜」シャワーの音の切れ間に、ドア越しに声を掛けます。「はーい」
と、帰ってくる声は、さっきに比べちょっと明るくなっていました。「なあ?」「んー?」「一緒に入っていい?」「やだ」即答……。千佳の拒絶にはいつも迷いがありません。