キャバ嬢を愛して5

2018/10/20

ちょっとした誤記が生んだ伝票上のゴタゴタに巻き込まれ、終電を逃してしまいました。
けっこう頭に血が登り、上司と盛大に喧嘩してしまったこともあり、まだ興奮状態が続いています。
そのまま家に帰る気にはなれず、たまにはひとりで呑んで帰るか、と、センター街の外れにあるショットバーへと向かいました。
そのバーはカウンターのみの小さな店ですが、バーボンの品揃えの充実した「いい店」です。
400本近いバーボンがずらりと並ぶバックバーは圧巻のひとこと。
今ではもう呑めないオールドボトルも数多く取りそろえています。
かつて、新入社員だった頃、今はひとりも残っていない同期たちと、青臭い夢や将来像を語りまくった店でもあります。
仲間が減るたびに足が遠のき、今では半年に1〜2度程度しか顔を出さなくなりました。
重いドアを開け、薄暗い店内に入ると、口ひげのマスターが嬉しそうな顔でおしぼりを持ってきてくれました。
他に客はカップルがひと組だけ。
「あいかわらず静かでいい店だね」
「皮肉ですか?経営してられるギリギリのセンですよ」
「ゴールドトップ、ストレートで」
「はい」マスターはメジャーカップを使わず、慣れた手つきでショットグラスにきっちりダブルで酒を注ぎます。
黙っていてもダブル。
通い慣れた店にいる安心感が俺を和ませます。
「ご無沙汰でしたね。絵里さんはお元気ですか?」
「ああ……。別れたよ」
「え?離婚?」
「そう。今年の初めにね」
「……それは、失礼いたしました」
「はは、いいってことよ」気が付くと、千佳の口癖が移っていました。
がしゃん、とグラスと倒れる音に、振り返ると、カウンターの奥に座っていたカップルの男が立ち上がり、ふざけるな、と声を荒げました。
あわててマスターが近づき、お怪我はありませんか、と、仲裁に入ります。
紳士風の男は財布を取り出すと、何枚かの札をカウンターの上に投げ、そのまま店を出て行ってしまいました。
女性の方はカウンターに突っ伏したまま、身じろぎもしません。
マスターはやれやれ、という表情を作り、懐中電灯と、ほうき、ちりとりを持って、カウンターを出ました。
「Eさん、申し訳ありませんね、静かな店じゃなくなって」
「もう、終わっただろ?」
「そうですね。……お嬢さん、すみません、コップの破片を片付けますので、お足元失礼します」そういって、他の席に移ることを促すと女性は「すみません」といって足元に注意しながら、立ち上がりました。
それまで、顔を伏せていたこともあり、気が付きませんでしたが、その横顔には、見覚えがありました。
「あ」まずいと思いつつも、つい、声が漏れてしまいました。
振り向いた彼女の、涙で濡れた表情が硬直するのがわかります。
「……京香さん」
「つまらないところ、お見せしちゃいましたね」
「い、いえ……」京香さんと、この店で隣同士並んで酒を呑むなんて、当たり前ですが、想像すらしたこともありませんでした。
普段、楚々とした笑みを湛え続けている正統派美人の疲れた面持ちに、思わずどきどきしてしまいます。
「今日のことは、たーさんや『春菜』ちゃんには黙っていてもらえませんか?」
「そりゃ、もちろん……」
「おわかりになってると思いますが、彼はお客様じゃありません」
「ですよね……」
「以前、勤めていた会社の上司で……不倫の相手です」
「はあ」突然始まった告白に、間の抜けた返事を返すことしかできません。
「ありがちな話ですが、結婚の約束をしていて。馬鹿だと思いますが、離婚するっていう彼の言葉を信じてしまったんですね。馬鹿だなあ、私。本当にありがちな話なのに……」彼とは『エンジェル』に入る前からの付き合いだったこと、処女を捧げたこと、彼には中学生のお嬢さんがいること、最近不倫がバレそうになっていたこと……。
脈略なく続く独白を、俺は黙って聞いていました。
お店で見せる笑顔の影に、完璧なプロとして接客をこなすナンバーワンのプライドの裏に、ごくごく普通の恋愛に苦しむ「本当の京香さん」がいる……。
そんな当たり前のことを思い、同時に千佳のことを考えていました。
千佳はどれぐらいの闇を抱えて生きてきたんだろう?京香さんもそんな仮面を、まさか俺の前で外すことになろうとは、想像もしていなかったと思います。
ズタズタの精神状態と、偶然すぎる対面、そして俺が自分の指名客ではないということが、意外な独白を引き出したのでしょう。
「マスター、マティーニもう一杯」
「もう10杯目ですよ。そのへんにしておきませんか?」
「……呑ませて。迷惑は掛けないから」苦笑いしながら、これで最後ですよ、と言ってマスターはミキシンググラスを手に取りました。
「ありがとう、ここのマティーニ美味しいから……」そういうと、京香さんは俺の肩に頭を預けてきました。
「泣いちゃうかもしれないけど、放置しておいてくださいね」そういわれても、この状況で放置できるはずありません。
かといって、俺に出来ることはそのまま肩を貸すぐらいでしたが。
「ごめんなさいね、Eさん。『春菜』ちゃんに怒られちゃう」
「いや、怒らないと思いますよ」話したところで、千佳は絶対に怒らないでしょう。
でも、話せません。
黙っていると約束した上での独白だったと思っていましたから。
そのまま、目の前に置かれたマティーニ手を付けることなく、京香さんは眠ってしまいました。
「お知り合いだったんですね」
「ああ、聞いてのとおりだよ」
「バーテンダーは、お客様同士の会話は、なにも聞きませんよ」
「……そういうことにしときましょう」深い寝息を確認して、俺は彼女の頭を肩から降ろしました。
「あんまりね……」
「ん?」マスターがグラスを拭きながら、ぽつりと言いました。
「あんまり、いい男じゃないんですよ、彼氏」
「……そう」マスターが他人の評判を口にすることは珍しいことです。
それだけで、京香さんの彼氏の行いが想像できました。
「余計なお世話ですけどね」
「……余計なお世話だな」
「ですね。……しかし、困りましたね」そういって、熟睡している京香さんを見やります。
「どう……しようかね?」送っていこうにも京香さんの住所など、知るわけもありません。
強引に起こしてタクシーに同乗し、家のそばまで送るにしても、この状態では不可能です。
時計を見ると、すでに4時。
昨日も千佳と夜更かししていただけに、強い睡魔が襲ってきます。
「置いて帰る、ってのもできないよなあ」
「そうですね、あれだけ頼られたんですから、男としてきちんと面倒を見た方がいいとは思います」
「あれ?『バーテンは聞かない』んじゃなかったの?」
「そんな雰囲気に見えただけです」そういって、マスターはくすくすと笑いました。
マスターの炒れてくれたコーヒーを飲みながら、昔話に花を咲かせていると、京香さんがようやく目を覚ましました。
「あ……あたまいたい」
「はい、好きな方をどうぞ」そういって、マスターは水とオレンジジュースをカウンターに並べます。
京香さんは水を一気に呷ると、さらにオレンジジュースに口を付けました。
「すみません、眠っちゃって……」
「ずいぶん無理して呑んでましたからね」とマスター。
京香さんは腕時計に目をやり、えっ、と小さな悲鳴を挙げました。
「もう……10時ですか」そして、はっと気が付いたように俺を見ます。
「あの、Eさんお仕事は……」
「午後出社にしましたよ。レディを置いていくなって、ヒゲオヤジに脅されたし」
「すみませんっっ!あんな愚痴に付き合わせた上に、お仕事まで!」
「ああ、大丈夫。今は暇な時期だし、有給とってもよかったぐらいだから。でも、覚えてるんですね、昨晩の会話とか」
「ええ……。忘れてた方がよかったですね、すみません」
「はは、いいってことよ」
「あ、それ『春菜』ちゃんの口癖」そういって、笑う京香さん。
その笑顔だけで場が一気に華やぐのだから、たいしたものです。
「ああ、そうね。移っちゃったみたい」
「もう大丈夫そうですね。タクシー、お呼びしますか?」マスターがネクタイを緩めながら聞きます。
「いえ、この時間なら電車で帰ります。すみませんでした、迷惑ばかりお掛けしてしまって」
「いえいえ、お気になさらずに。バーテンダーは綺麗な女性には寛大ですから。それに」ちらりと俺に視線を投げます。
「Eさんも同様のジェントルマンですからね」あまりにも気障ったらしい台詞に、俺も京香さんも思わず吹き出してしまいました。
「んー。今日もいい天気。……何があっても陽はまた昇る、か」気持ちよさそうに伸びをする京香さん。
店を出る前にメイクを直した彼女は、昨晩の出来事などなかったかのように、清々しい美しさに満ちていました。
「ねえ、Eさん。まだ時間あります?」
「大丈夫ですよ。うちの会社ここから歩いてすぐですから」
「お詫びにもならないかもしれませんが、ランチおごらせてください」
「ああ。いいですよ。そういえばお腹すいたかも」敢えて会社とは反対の方角へと歩き、小洒落たイタリアンの店へと腰を落ち着けました。
しかし、安請け合いして同席したものの、いったい何を話していいのやら。
そんな俺の困惑を察したかのように、京香さんが話し始めます。
「私ね、3人姉弟の一番上でね。両親が共働きだったんで、いつも弟2人の面倒をみていたんです。それもあってか姉御肌っていうのか、いろいろ頼られる立場の方が気が楽なんですよ。だから、甘えるのがとっても下手で、……」
「わかるような気がしますね」
「いままで心底頼ったのって、昨日の彼ぐらいだったんです」
「そうですか」
「お店でも、それなりのプライドがあるから、プライベートな悩みなんて、女の子たちにも話せないし、スタッフにもいつも文句を言ってる立場上、弱音はけないし。

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