ハリケンブルー痴漢(1)
2018/01/11
その日も、ターミナル駅は混雑していた。
スーツ姿のサラリーマンに杖をついたお年寄り、ヘッドフォンからシャカシャカと雑音を振り撒いている若者。
ちょうどラッシュの時間帯にぶつかったらしく、構内の通路はたくさんの人、人、人で溢れ、それぞれ忙しげに先を急いでいる。
一見して、特に珍しくもない日常的な光景。
だがその中には、行き交う人々の僅かな隙間をすり抜けるように疾駆する蒼い影の存在があった。
常人の目には残像すら映らぬほどの速度で移動する蒼い影は、さながら吹き抜ける一陣の風のようであった。
(――逃げられた……?)しばらくして蒼い影は突然歩みを止めると、人々の前に姿を現した。
人混みの中から突如現われた影の存在に気づき、構内は俄かに騒然となる。
「うわっ、な……なんだ?」
「さ、さぁ……映画の撮影か何かじゃないか……?」人々が騒ぎだすのも無理はない。
空間から突然何かが出現したという事実もさることながら、その何かは人に似て非なる姿をしていたからである。
全身を覆うフルフェイスのヘルメットとワンピース型の戦闘用スーツは明るい青色で統一されており、光を反射して少し眩しい。
背中には鞘に納められた日本刀とおぼしき武器が吊られていて、近未来のイメージのうちにどこか忍者を彷彿させる出で立ちだった。
要するにこの場からは明らかに「浮いている」格好なのである。
しかしその蒼い影、もとい、ハリケンブルーは周囲の喧騒など気にも留めず、ヘルメット内のディスプレイに意識を集中させた。
駅の構内図の中に、敵の姿が光点で示される。
(……いや、まだ近くにいるわ)おおよその位置を確認して再び走り出そうとしたその時。
『――七海、聞こえるか?』七海の耳におぼろからの音声通信が入る。
『いったんひき返して鷹介達と合流するんや』
『お願い、もう少しだけ』
『あかん、深追いは禁物やで』その言葉に、七海は構内の壁を軽く叩いた。
(たとえ人間に変装して人混みに紛れたとしても、与えたダメージまでは隠し切れないはず。なのに……どうして……?)敵は、お世辞にも強いとはいえなかった。
七海が独りでいる時に遭遇したため一騎打ちの形になったのだが、こちらの攻撃が悉く思い通りに決まった。
あとはとどめの疾風流剣技・激流斬を見舞うだけ、というところで、突然敵が尻尾を巻くように逃げ出したのだ。
これまでにない敵の行動に意表を突かれたのも事実である。
だが何よりみすみす敵の逃亡を許した原因は七海自らの慢心。
それが七海には許せなかった。
「電車が参ります。白線の内側までお下がりください」駅員の職業的なアナウンスの後、車輪を線路に軋ませてプラットフォームに電車が滑り込んできた。
ドアが開き、人波が電車の中に吸い込まれていく。
七海は慌てて戦術ディスプレイを確認するが、敵が果たして電車に乗り込むものか、それともホームに留まるものか、光点の位置からは判別できない。
(くっ……これまで、ね)敵の姿を視認できない以上、追跡は不可能だ。
おぼろの忠告に従い、踵を返して基地へと戻ろうとしたその時、背広の袖口から血筋を垂らすサラリーマンの姿が七海の目に入った。
『おぼろさん、見つけた!!』
『あかん、七海、戻るんや!!』おぼろの制止も聞かず、七海は男の後を追い電車に乗り込んだ。
電車のドアが――音を立てて、閉まった。
電車に乗り込んだ七海は呆然としていた。
発車間際に見つけたはずの、袖口から血筋を垂らしたスーツ姿の男――恐らくはジャカンジャ、を再び見失ってしまったのである。
辺りを捜索しようにもラッシュ時の電車の中は鮨詰め状態であり、七海は自由な動きを封じられてしまっていた。
ひとまず戦術ディスプレイを確認すると、睨んだ通り敵は同じ車両にいることを光点が指し示している。
仕方なく七海は他の乗客と同じように吊り革に掴まり、警戒しながら意識を周囲の乗客に集中させることにした。
しかし。
「おい、何だよあの格好?」
「さあ、コスプレか何かじゃねぇの?」
「マジかよ、頭おかしいんじゃね?」吊り革に掴まり電車に揺られる異形の姿を目にした乗客たちは、不審気にひそひそと囁きを交わし、その声が七海に突き刺さる。
ひとたびジャカンジャとまみえれば、その戦闘力と水忍の忍術で敵を圧倒、殲滅するハリケンブルーのスーツも、一般の乗客の中にあっては単なる奇妙な紛争でしかなかった。
それでも、敵が近くにいる以上は変身を解くわけにはいかない。
乗客達にかけられる辛辣な言葉に、七海はただただ耐えるほかなかった。
そんな七海の姿を、じっと見つめていたスーツ姿の男がいた。
歳の頃は30代前半であろうか、痩せ型で銀縁のメガネをかけている。
ずり落ちたメガネを指で直す仕草からは、どこか神経質そうな印象を受ける。
そして袖口からは――じわじわと滲む赤色。
傷口が痛むのか、男は顔をしかめながら腕をさすった。
(いいようにやりやがって……目にものを見せてくれる)心の中で吐き捨てると、男はそろそろと七海に迫った。
混雑に辟易しながらも七海の背後に辿り着いた男の眼前には、ハリケンブルーのヘルメットがあった。
言うまでもなくヘルメットの下の首までもぴったりとしたインナーで覆われているのだが、それゆえに普段は髪で隠れているであろううなじの線や意外にも細い肩のラインがはっきりとわかる。
戦闘用スーツは通気性にも優れているのか、そっと顔を近づけるとシャンプーの匂いと汗の臭いが混じり合ったなんとも言えない香りが男の鼻をふわっとくすぐった。
(こりゃもう我慢できねぇぜ……ククッ……)その香りに牡としての本能を刺激されたのか、男は大胆にも七海の太腿に背後からそっと左手を伸ばした。
掌に触れた太腿は一分の隙もなくレオタードに覆われており、スベスベした繊維と網目の感触が指に心地いい。
肉付きが良いにも関わらず、軽く指でふにふにと押してみるとハリのある弾力が返ってきて、男の嗜好を十分に満足させる。
(よく見たら随分とそそる格好をしてるんだな)幾分か余裕が出てきたのか、男は背後から七海の肢体を眺めた。
どちらかというと肉付きのよい部類に入るだろう。
その体を銀色のレオタードと青色のワンピースが窮屈そうに締めつけているせいで、スーツの上からでもボディラインがはっきりと分かる。
豊かな胸の隆起。
魅力的な腰の曲線。
ツンと上を向いたヒップ。
しかもワンピースのミニ丈はかなり大胆で、戦闘用のスーツでありながら男の性欲を刺激するに十分なセクシーさを兼ね備えていた。
男は舌なめずりをした後、つぅっと太腿を撫でた。
その瞬間、不覚にもこれまで意識を乗客達からかけられる心無い言葉に向けてしまっていた七海の体が、ビクンッと跳ねた。
「―――ッ!?」
「動くな、ハリケンブルー」ようやく太腿の刺激に気づいて振り向こうとする七海を冷たい囁きが襲い、冷や水を浴びせられたような寒気が背筋に走る。
そっと振り向くと、あの男が下卑た笑いを浮かべながら佇んでいた。
(――やはりこの男が、ジャカンジャだったのね)自分の読みが当たっていたとはいえ、ようやく敵を確認できたとはいえ、背後を取られるという不利な体勢であることには変わりがない。
度重なる失態に臍を噛みつつも、七海は背後の敵の隙を窺う。
敵はそんな七海の狙いを感じ取ったのか、更なる囁きで追い討ちをかける。
「他の乗客がどうなってもいいのか?なんならこの電車ごとふっ飛ばしてもいいんだぜ」
「……ッ。う、くっ、卑怯な真似を……」それは七海と男にしか聞こえないほどの小さな言葉。
だが七海にとっては、反撃の機会を奪われるばかりでなく現在の危機的な状況を思い知らされる大きな言葉だった。
いくらこの敵が弱いとはいえ、狭い電車内である。
この場で戦闘を始めれば乗客たちに確実に危害が及ぶだろう。
いや、最悪の場合電車が脱線して大惨事になることも考えられる。
そしてこのピンチを招いたのは、他ならぬ自分のミスだ。
人質をとるという目の前の敵の卑劣さと、自らの思慮の足りなさに、七海は唇を噛んで静かに悔しがった。
「わかったら大人しくしているんだな」
「……わ、わかったわ。その代わり、他の人に危害は加えないで」七海の持ちかけた苦渋の取引に答えようともせず、男はよりあからさまに太腿を撫で、感触を楽しんだ。
「いい脚してんな、ハリケンブルー」
「……う、うるさいわ」
「褒められたら女は素直に嬉しがるもんだぜ。ククク」
(くッ、弱いくせに……ちゃんと戦えさえすればこんな奴……)疾風流忍者のはしくれだけあって努めて冷静でいようとしているようだが、これまでの敵とはまったく違う未知の手管に、七海の声は上擦っていた。
男はそんな反応すら楽しいらしく、下卑た笑みを浮かべ続けている。
そのとき、これまで遊ばせていた男の右手が、七海の胸を掴んだ。
「ひっ……!?」
「おっと、声を出すと周囲に気づかれるぜ」
「ん……うっ……く……」慌てて言葉を飲み込む七海を尻目に、男は思う存分胸を揉みしだく。
ごつごつした男の指に沿って柔らかな膨らみは形を変え、歪む。
下半身に伸ばした左手はその間も間断なく動き続けており、太腿だけでなくヒップをも撫で、さするようになっていた。
そのあからさまな手つきに周囲にいる乗客達の中には異変に気づいた者もいるようだが、面倒事の関わり合いになるのを恐れてか、誰も二人に声をかけようとしない。
ハリケンブルー痴漢12