ひらいて
2019/04/01
「ひらいて」
かさついた指先。
そのごつごつとした四角い掌。
丸い肩から伸びた二の腕の、少しだけ残った半袖の日焼け跡。
その腕に抱かれてまどろむ午後を、私はこんなにも求め続けていた。
「ひらいて」
たとえは灰色のソファーベッドに三角に座った私に跪いて、私の膝小僧に手をそっと置く。
理科室みたいな真っ黒なカーテンの間から洩れ差してくる梅雨空の薄暗さの中で、
私はたとえの硬くまっすぐ伸びた黒髪を優しく抱え込んだ。
私のからだの一番熱くなっている部分に、唇が近づき触れると、
彼のくぐもった興奮が鼻息となって私を撫でる。
くすぐったさと気恥ずかしさで、黒々とした頭を押し戻そうとすると、
たとえは不器用に舌を伸ばし、なぞった。
ひとしきり彼のぎこちない愛撫に身を委ねていると、また子どもがおねだりをするような所在なげな光を私に投げかけてくる。
この目だ。
この視線の先に、私という暗い影が少しでも映り込む余地があるなら、
誰を傷つけてでも、自分を貶めてもいいと心から思った。
「もう一度だけ、いい?」
たとえの低い声。
湿度の高いこの部屋に来て、何度目だろう?このせりふ。
私は三回目から、もう数えるのをやめていた。
これが最後、と思いながら大好きな男に抱かれる快感は、私を敏感に刺激した。
たとえの全てを絡め取り、味わい尽くしたい。
たとえの人生のほんの小さな出来心の寄り道でも、その道すじに残る水たまりになりたい。
何度も何度も体だけを求めてくるたとえに、私は身をゆだねた。
繰り返すうちにスムーズに、けれどまだ躊躇しながら侵入してくる彼を感じながら、むき出しの蛍光灯から垂れ下がる白い紐を眺めていた。
「深雪はまだこの部屋に来てないんだね」
たとえが止まる。
「あの子が来たなら分かるよ。深雪は足跡を残していくから」
私の唇から発せられる、大切なひとの名前に、私のからだの中にいる彼が反応した。
「深雪のこと、大切にしてね。私は傷つけすぎてしまったから」
何も答えない彼の深く突き刺さった葛藤が、私の中で固く押し広がる。
たとえは私と目を合わさないように狭い部屋を眺め回した後、言葉を見つけられないまま、動いた。
深雪という単語を聞くたびに硬く大きくなってゆく彼を感じながら、私の歪んだ愛情は傷口を広げていく。
たとえが中で果てた後、汗でべたついた分厚いからだを委ねてくる息苦しさが幸せだった。
本当はすぐにゴムをした根元を押さえて抜いてしまわないといけないけれど、ずっとそのままでいて欲しかった。
「たとえ」
初めて会話した時と同じように、無意識に口をついたその名を、私はその背中にしっかりしがみついて呟いた。
「ごめん、今、抜くから」
申し訳なさそうに我に帰ると、目を合わせないまま上体を起こして私から抜け出た。
そばにいるのに感じる喪失感。
何度抱かれても私のからだが彼を支配することはないと確信めいたものがある。
行為を終えた男の気まずさは、本当に女を愛している瞬間でなければ、決して隠し通せるものじゃないということに、私はずいぶん前から気付いてる。
「たとえ」
ベッドから立ち上がった後悔の塊みたいなその背中を見つめて、呼ぶ。
「すまない」
たとえは汗の染み付いたソファーベッドにくたくたになって横たわる私を、事務的に拭き取り、タオルケットをかけた。
もっと傷つけて欲しい。
「たとえは、何も聞いてくれない」