自衛隊内での恋愛事情
2018/04/23
女性自衛官との性交について記す。
少し昔のことだ。
16~7年前くらいだろうか。
最近、「女性自衛官」という言葉に替わったが、ついこの前までは「婦人自衛官」と言った。
この婦人自衛官のことを、陸上自衛隊では「WAC」という。
Women's Army Corps の略である。
婦人自衛官というよりも、この英語の訳なら、むしろ「女軍」というほうが正しかろう。
婦人自衛官制度そのものは昭和20年代からあるが──看護婦の自衛官は昭和27年、一般の婦人自衛官は昭和43年から採用されている。
旧態依然に見える自衛隊の、一風変わった進歩具合も見えなくもない──、私が勤務していた部隊にWACが
配置されるようになったのは、ようやく平成に入ってからである。
私は当時、3曹になって5年目、仕事にやりがいもあったが、今思えば稚気に
あふれていた頃でもあった。
自衛隊では、一般の企業などとは違って、かなり長期間にわたって教育をほどこす。
わかりやすいところでは、防衛大学校の4年というのもかなり長いし、一般の隊員でも
1年以上は教育期間である。
素直に考えれば当たり前のことで、ほかの知識・技術なら
高校や大学、また専門学校で学ぶことも出来るだろうが、平和日本のどこの学校で、造兵学だの安全保障論、機関銃の撃ち方やら榴弾砲の構造、人の頚椎の折りかたなど
教えるだろう。
私が所属していたその部隊に、教育を終えたWACが入ってきた。
新隊員は更に引き続いて、「特技教育」と言って、専門的な技能を付与する教育を3ヶ月ほど行う。
私はその「助教」
(教官を補佐するもの)を命ぜられた。
WACは4名いた。
その中に、彼女、山本がいた。
当時2士である。
私の目には、彼女らはとても幼い子供のように見えた。
当時の私が口をきく女性は、外出などしたときの酒場の女性くらいであり、そのスレ具合に比べれば、4人のWACは小学生そのものであった。
当時の私は才気煥発なほうで、また、怒鳴りもすれば暴力も振るうたちであった。
しかし、こんな子供子供した4人の少女に教育を施すことになるとは思いもよらぬことで、内心途方にくれた。
当時は既に、自衛隊の勤務環境を魅力化しようと、さまざまな緩和施策
(『輝号計画』と呼ばれた)が少しづつ実施されており、それより以前ほどの
殺伐さはなくなっていたのだが、訓練や日常の生活はまだまだ殺伐としていた。
私のいた部隊に限ってかもしれないが、仕事や生活はまだまだ怒号が左右していた。
わたしはそんな殺気立った若手の急先鋒だったのである。
その私が、どういうめぐり合わせか、高校を出たばかりの少女の教育を担当することに
なってしまったのだ。
教育そのものは順調に進んだ。
だが、やりにくいことこの上なかった。
男どもに対する
教育であれば、間違った操作などをすると、「どこ回してんだ!!こっちだろうが馬鹿!
死ぬかコラ、あ?」などと怒鳴りつけ、体の向きを直したり、蹴飛ばしたりもできる。
私自身もそうやって装備の操作を身につけてきた。
だが、相手がこんな子供のような
少女では、体に触れるわけにも行かず、蹴飛ばすわけにもいかず、正しい操作を
させるのにアゴが疲れるほどしゃべらなければならなかった。
そのくせ、彼女らは子供子供したなりとは裏腹に、妙に理屈っぽく、つじつまが
合わないことがあると、さも不思議そうな大きな目を見開いて、「でも班長、さっきはこうおっしゃったじゃないですかぁ」などと、頬を赤らめて
詰め寄ってきたりする。
なのに、基本教練をやったり、体力練成で駆け足などさせると簡単に泣いたりして、どうにもこうにも勝手が違い、面倒を見かねた。
だが、意外に、怒鳴りつけたりするのには
彼女らは強かった。
強いというよりも、怒鳴ると、まるで何か変わった物でも見ているかのようにじっと
私の顔を見ているばかりで、なんだかちっともこたえないような感じなのだ。
女を怒鳴りつけるとこんな反応をするんだな、と、妙なところで私は学習した。
男なら、むしろ蹴飛ばしたり叩いたりしたほうが反発し、敵愾心に満ちた目を向けてきたり
する反面、面罵したりするのには弱く、ちょっと「コラ」と言っただけで涙ぐむ奴さえ
いるのだが・・・。
怒号でならした鬼伍長も、小娘相手ではかたなしで、しどろもどろになりつつ、やっとの思いで特技教育を終えたことであった。
その後、彼女らのうち1名は、中途退職と言って、2年任期、──つまり、契約社員の
2年契約のようなものと思えばよかろう──を満たす前にさっさと中途退職してしまい、1人はなにやら、「大切なひとり娘に銃を持たせたり殺人術を教え込むとは約束が違う」
などと、ワケのわからない理屈で両親が怒鳴り込んできて連れて帰ってしまい、もう1人はどうしたなりゆきか、民間人と結婚して、これも中途退職した。
民間人と結婚した
WACは、ちょっとカワイイと評判だったので、中隊の丸坊主のムサクルシイ男どもを
大いに落胆させたものだった。
結局中隊に残ったのは、山本だけだった。
山本は色白で、体は細かった。
背は165センチほどあった。
目鼻がはっきりしていて、口は小さかった。
誰にも似ていないから、芸能人には例えようがない。
雛人形の
顔立ちを「濃く」して、目を大きくしたような顔である。
当時の規律で、ワカメちゃんに
近いオカッパ頭だった。
頭が良かった。
何がそんなに面白おかしいのか、くるりくるりとよく笑った。
しかし、本気で笑っているのでもないようなふしもあった。
子供と大人が
同居したような感じで、私は内心、ちょっと山本を気に入っていた。
山本以外のWACが辞めてしまって少し経った頃、演習があった。
およそ1ヶ月ほど
演習地に宿営し、訓練をした。
さまざまな規律が緩和されていた当時としては、珍しく.かなり長期の演習と言えた。
しかし、演習は長期になるとかえって楽な面もあった。
部隊にもよるが、1ヶ月間ブッ通しで
戦闘行動をするわけではない。
訓練の合間に休務になることもあり、そんな日はゆっくりと
昼寝をしたり、許可が下りて、近傍にある温泉に行くこともできた。
小隊長が「おい、温泉行くか?」と声をかけ、小隊陸曹が「おーい、お前等、ちょっと来いや」
なんぞと隊員を集合させる。
私もイソイソとその尻馬に乗り、温泉に行って、さっぱりしたものだ。
だが、その日、私は2200(午後10時)から弾薬庫の警備の当番に
当たっていた。
演習に使う弾薬を、夜間も休まず警備するのである。
1時間交代だ。
せっかく温泉に行ったのに、冷えちまうよォ。
天幕の前に置いた椅子に座って
ブツクサこぼしていると、山本が寄ってきた。
「班長、今日弾薬ですよね」
「・・・ああ?おう。」
私は山本の班長ではないのだが、山本が班長、と私を呼ぶのは、自衛隊では陸曹に
呼びかけるときに、「班長」と言う習慣があるからだ。
同様に、2尉・3尉に呼びかけるときには
「小隊長」と言う習慣もある。
これらの呼び方は、どちらかというと、少し親しみを込めて言うようなときに使う。
「せっかくおフロ行ったのに、かわいそー」
「なんだよ」
「・・・班長そんな、キレ気味に『なんだよ』とか言わないでくださいよう」
なんだか、山本が言いたいことがわからない。
「俺の弾薬庫警備がどうかしたか…